森と海の出会う場所、須賀利を訪ねて。

2012年09月24日 00:01

 

 昭和57年に県道が開通するまでは陸路が無く、海を渡る船が住民の唯一の足だった三重県尾鷲市須賀利町。まさに陸の孤島だったこの町には、都会では失われてしまった自然のリズムと共に過ごすスローな時間が流れていました。この須賀利出身の友人に連れられて、懐かしい古き良き時代の日本の故郷の匂いを感じる旅へ。そこで見つけた、かけがえの無いカタチなき”宝物”とは?


<1日目> 2009年5月30日(土)

 

「窓からの景色が素晴らし過ぎて、勉強なんかする気無くなる学校だったよ。」

 女友達の披露宴で隣に座った友人が、ボソっと呟いたこの一言。「そんな学校なら一度は訪ねてボーッと居眠りしてみたい!」と、ゆるーい動機で今回の友人の生まれ故郷訪問旅の話が持ち上がる。あれから約1年、いよいよ実現となりました。いい歳コイた野郎4人(笑)まるで学生のノリで友人の実家に押し掛けてお世話になるという、ちょっと照れくさい、なかなか貴重で挑戦的!?な旅に出掛けます。

 早朝の出発。高速千円にあやかって、ヴィッツに大の男4人乗り込んで高速乗り継ぎ、愛知から三重の尾鷲へと向かう。尾鷲が近付くに連れて雨足は強くなり、さすが日本一雨の降る所だなぁーと雨なのに妙にテンションが高まる。お昼前には尾鷲市内へ。駅前にある友人の地元友達の紹介のお店で昼食。800円で10も小鉢が!海の幸、山の幸が主張し合う小鉢料理を堪能して、満腹のお腹をさすりながら、まずはこの地域の予習を!ということで「熊野古道センター」へ向かいました。

 

総ヒノキ造りの熊野古道センターに驚嘆!!

 「すげぇなぁー!!」どしゃ降りの雨に打たれながら、地元原産の総檜(ヒノキ)造りの贅沢な公共施設に一行は驚嘆の声を上げる。建物に近付くとヒノキのいい香りがふわぁーんと漂ってきて、それだけでも心身共に癒されます。実はここのお目当ては、ちょうど今回の旅の目的地「須賀利(すがり)」をテーマにした写真展が行われているということで、ちょっと覗いてみよう!と立ち寄ってみたのですが、想像以上の規模の施設だったので思わず長居することに。資料館では熊野古道の歴史や信仰の知識など事細かに紹介されており、建築物や景観だけに走りがちな世界遺産の見所を”感じる”場所として捉え直して強調されていたのが印象的でした。

 それにしてもこの雨模様の天気のせいなのか観光客は少なく、とにかく何もかもがほぼ貸し切り状態な感じで、映像シアターを独占したりしながらゆったりと学習タイムを過ごせました。ロビーでは地元の方たちが集まってホームヘルパー講座が行われていたりして、立派な公共施設で佇みながら、なんとも地方の現実を垣間みたような気分になりました。その後はお土産物市場とスーパーに立ち寄る。普段、自炊なヒトたちなのでスーパーでの価格チェックは厳しい(笑)。やはり愛知のようにスーパー乱立殴り合い競争というわけでもないので、全般に価格は高めなんだけど、のんびりした雰囲気はかつての地域密着系な小ぶりなスーパーを思い起こさせます。友人宅には地元の老舗の美酒をお土産に持ってきたので、自分たちの呑む分くらいはと発泡酒など安酒をたんまり買い込む。なんか久々の合宿気分だぁ〜、楽しいなぁ〜。

 

町唯一の喫茶店で、地元の方と楽しいお茶の時間を過ごす

 さて、いよいよ須賀利へ。本来なら現在も運行している「巡航船」と呼ばれる海からのルートで須賀利入りをするつもりだったけど、天気が荒れ模様なのと若干1名体調不良者が出たので、昭和57年開通の県道から須賀利の町へ向かいました。トンネルや急カーブの連続で、さすが17年の歳月をかけて工事しただけのことはあるなぁーと思う交通の難所。人口300人余りの町への唯一の陸路です。

 雨は奇跡的に上がり、町の入り口辺りの静寂に包まれた雰囲気のある漁村風景に一行は萌えまくります。(笑)クルマを停めてしばし撮影タイム!というところで、いきなり友人、知り合い発見!!久しぶりの再会ということで、ウルルン滞在記スペシャル並みの歓迎っぷりで、須賀利町で唯一の喫茶店に招かれることになりました。店内では地元のお客さんと一緒に、この町を出て行った若者たちの近況など、まるで帰省して同級生たちの話を聞いているような(実際そうなんだけど)雰囲気に和みました。写真展を開いていたカメラマンもこのお店を訪れているらしくて、プリントなど見せてもらいながら、町の撮影スポットを丁寧に教えてくださいました。

 

時が止まった須賀利の町並み

 友人のご両親が玄関で一行を迎えてくださり、近所の方々も大注目で(笑)なんとも照れくさい気分です。でも、息子の友人というだけで遠くの地の見知らぬオヤジ3名を受け入れてくれた懐の深さを感じて、あぁ、身内でないのに身内な気がする不思議な感覚に捕われました。

 雨も完全に上がっていたので、日が暮れるまで町を散策。町の人と挨拶を交わしながら静かな漁村を撮り歩きました。しっとりと濡れる路地裏の通り。防波堤に無造作に置かれた漁具。穏やかで神秘的な入り江の風景。「帰って来たんかー!」「ともだち連れてきたー!」地元のおばさんに声を掛けられて答える友人。方言が飛び交うと遠くに来たもんだぁ、と実感します。町の人たちは家族みたいなものであり、町の通りは家の庭みたいなものです。銭湯の跡や火の見櫓、水揚げ場や休校している小学校など、どこも雨上がりのしっとりした空気が漂っていて往時の繁栄を色濃く感じさせてくれました。本当にここは昭和で時間が止まっています。普段なら土曜夕方のこの時間、道路も混雑してきて、せかせかギラギラ忙しない時間帯となりますが、ここはそういうこととは全く無縁!自分たち以外にほとんど人は歩いておらず、あちこちから晩ご飯のいい匂いがしてきて、自然に家に帰ろうかと思ってしまうほどでした。

 

須賀利流おふくろの味を堪能

 夕食は友人の実家で須賀利流おふくろの味を堪能!!鯛やハマチ、イカやマグロなどなど、ものすごいボリュームの刺身が盛られ、海の幸だけじゃなく、山の幸の鹿刺しまでデーンと!!町で収穫したという新鮮野菜もてんこ盛り!お母さんは僕たちの箸の進み具合を見ながら、次々と料理をアレンジし直して(カラッと揚がった揚げものはやがて南蛮漬けに、サラダやタコ刺しはゴマ風味の効いたなますに変身!)箸が止まるの阻止する華麗なる手さばき☆お父さんも上座でしっかり僕たちに美味しい食べ方をレクチャー。ホントに久々の一家団欒でした!(他人様の家ですが・・・笑)


創作で暮らしを愉しむ

 そんな豪華な宴もボチボチ落ち着いたところで、一応、今回の訪問は須賀利の写真を撮りたいという僕の意向を伝えてあったので、友人のお母さんから「どんな写真撮ってるん?見たいわぁー!」とリクエストがありました。iPhoneに入れてあった画像をお見せしながら「ええなぁ、これ好きやわぁ〜!」とペラペラめくりながら盛り上がります。お母さんもかわいいストラップが付いた携帯を持って来て、お互いの画像を見せ合うという展開になりました。「おかんの絵を見せたれー、笑いが止まらんでー」と友人の一言がきっかけで絵手紙を習っているというお母さんのあたたかみのある素敵な作品も見せてもらうことに。あぁ、やっぱり人間のコミュニケーションの原点は、自ら作ったモノを見せ合うことなんだよなぁー。お父さんは庭で育てた花を自ら生けて、お母さんがそれを描くという。家の中にはあちこちに家族の作品が飾られていて、何かを表現することが当たり前の習慣になっているようです。そして息子(友人)も陶芸に打ち込んでいるという今の状況。なるほどーっ!と、妙に納得させられました。

 夜も更けて、枕投げなどすることなく(当然だが・・・笑)普段は一人暮らしなメンバー、川の字になって眠りにつきます。窓の外からは子守唄のように寄せては返す、やさしい穏やかな潮騒が聴こえてきたりして、月明かりの浜辺の風景をイメージしながら、いつの間にか熟睡していました。

 

 

<2日目> 2009年5月31日(日)

 

タコが降って来る!?お裾分けで豊かな食生活

 漁師町の朝は早い。と、言っても目覚めたの6時頃で漁師時間では完全に寝坊なんですが・・・。寝るのは遅かったのに、こういう時は早く起きてしまう。顔を洗ってさっそく朝の散歩へ。雨も上がって朝のひんやりした空気を浴びていると目も覚めてきました。玄関前に出ると、お母さんがバケツいっぱいの貝をバラバラ転がしながら「天然の冷蔵庫から揚げてきたんよー」と、まさに朝飯前の一仕事を終えていました。町の人たちと挨拶を交わしながら海辺をてくてく歩きます。岸壁のあちこちで他県ナンバーの車が駐車されていて、釣り人が早朝から海に向かって竿をたらしていました。カメラ持ってぶらぶらしてる連中は珍しいのか、ジロジロ視線を浴びまくりました。青空が覗いたかと思えば急にポタポタと大粒の雨が降ってきたりして、潮の香りで深呼吸した後は急いで家に戻りました。なんとなく夏休みにラジオ体操に行って戻ってきたような気分になりました。

 居間に座ったところで、先ほど見たバケツいっぱいの貝が、今度はお皿に盛られて湯気を漂わせていました。磯の香りがふわぁーんとする。小ぶりの巻貝はニシ貝。サザエもドカッと無造作にテーブルに置かれて、朝飯前のおやつなんだそうです(笑)。タコも登場し、早朝から近所の散髪屋さんがお裾分けしてくれたとのこと。お母さんは、息子が帰ってきたり、お客さんが家に来た時には、なぜか偶然ご近所さんからタイミング良くお裾分けをいただくそうで、まるで天からの授かり物のように「タコが降って来た!」と表現していたのが印象的でした。新鮮な海の幸。素朴な味付けでも、それぞれがついさっきまで生きていた濃厚な味わいを主張してきます。


最果ての不良のたまり場!?で語らう

 朝食後は友人に、かつての不良たまり場スポット(笑)へ案内してもらう。例えば、学校の屋上とか深夜の公園の展望台とか、不良のたまり場スポットというのはたいてい見晴らし良いのに、あまり人が寄って来ない場所が多いわけですが、どこに居ても声を掛けられそうなこの町でも、そういう場所はあるものなんだなぁーと感心してしまいました。潮が満ちて来ると帰れなくなりそうな岩場を渡って辿り着いた先は、町は見渡せるのに絶対に人が近寄ってこないような安心安全な場所でした。自由気ままに生き過ぎて、母なる日本社会から三行半を突き付けられそうな4人の男が、この須賀利の最果て不良たまり場スポットで語り合います(笑)。

 その後は町に戻ってくる途中、畑仕事をしていたお爺さんから声が掛かり、山の向こう側にある撮影スポットを紹介してもらう。とりあえず杉とシダが生い茂る紀州・熊野の風景の中を山に向かって歩きました。久々の山歩きで棒になりそうな重たい足を引きずりながら、息を切らして峠で休憩していたところ、後ろから地元の母娘と思われる二人組がやってきました。「巡航船で来たんですかー」と声を掛けられ、一発で地元人でないことを見破られる。挨拶を交わした後も軽やかに二人組は、見晴らしの良いこの休憩スポットをさっさと通過していきました。しかも足下を見ればクロックス、ちょっと庭でも散歩してるかのように・・・。


普済寺で見つめ直した須賀利の景色と心の風景

 お昼前に、この須賀利のシンボル的存在にもなっている普済寺というお寺の住職さんに会ってお話する機会を得ました。ちょうど新聞記者が取材に来ているということでしたが、こちらの約束も平等に!という須賀利流の価値観によって一緒にお話を聞けることに。須賀利の歴史や寺の宝物について詳しく分かりやすく説明してくださいました。近年、この土地の重要性が理解されるようになり、大学などの研究者が相次いで訪れるようになったとか。最初は軽い気持ちで門をくぐったのですが、しっかりレジュメも用意されていて、一行は真剣に襟を正して講義に耳を傾けました。

 講話の締めくくりにありがたい説法を。戦国大名の大内義隆が死に際して残した辞世の歌「討つ者も 討たるる者も 諸ともに 如露亦如電 応作如是観」(討つ人も討たれる人も、人生は露のように、稲妻のようにはかないものだ)を取り上げて、今の不況化の社会で起きていることを冷静に見るように諭されました。この競争社会、勝っても負けても所詮、行き着く先は同じ。例えば、G◯を蹴散らかして自ら苦しむト◯タのように、資本主義経済にしたって世界は複雑に繋がっており、負けたの勝っただの、単純に勝負が決まるわけじゃないのです。一度きりの人生、家族や友人、周りの人を大切にして、人類みな兄弟!ってな優しさを持てる社会を作っていきたいものです。やはり、須賀利のスロー時間の中で、こういう話を聞くからこそ、ストレートに伝わってくるのでしょうか。本堂から眺めた、おそらく何十年、何百年もあまり変わってない須賀利の景色を眺めながら、ぼんやりそんなことを考えていました。


友人を追い掛けろ!神秘的なクライマックス

 午後は友人が須賀利に帰ってくると欠かさず行っているという、神社へのお参りに同行させてもらいました。家を出ると高宮神社をお参りし、さらに裏山へと続く坂道を登っていく。「どこ行くん?」地元のおばさんに声を掛けられた友人が「上へお参りに行ってくる」と答えると、皆なぜか鼻で笑う(笑)。これは一体どういうことなのか?上がれば上がるほど道は段々細くなり、シダが生い茂る隙間を縫った獣道のようになる頃、ようやくその意味がわかった気がしました。足下は濡れ落ち葉がびっしり敷き積もり、時々滑って転びそうになる。山の中腹に差し掛かった頃、雨が突然降り始めました。しかし、深い森の木の葉が傘となり、自分たちは濡れません。そんな中でも雲の動きはとても早く、すぐ近くに陽の射しているところもあります。なんとも神秘的な雰囲気に包まれました。友人は汗だくでへろへろになってく他の3人を構うことなく、どんどん加速するように山を華麗な足取りで登っていきました。僕は今回、カメラマンとして友人の帰郷をドキュメントすることが目的だったので、このクライマックスで引き離されるわけにはいきません。無気になってカメラを構えながら、ひたすら獣道を駆け上がります!小さな鳥居をくぐったところで、それより先は訪問者の僕たちは近付いていけないような気がして、そこでカメラを下ろし、じっと待つことにしました。

 この道はかつて県道が無い頃には唯一の陸路だったらしく、嵐で何日も船が動けない時には、町の生命線としての役割を担ったといいます。そして、この険しい道中の安全を願って、ここを通る時には必ずお参りしたのだそうです。今でも友人は、故郷に無事に帰って来られたことを報告し、感謝の気持ちを表すという。それは信仰と言うよりは当たり前の習慣のようなもの。お参りを終えて山を下りる時には、さっきまでの緊張感から解き放たれて不思議なくらい気分も肉体も楽になり、あっと言う間に町まで降りていました。


須賀利で見つけた宝物とは

 友人の実家で最後の団らん。須賀利小学校の休校時に編集されたいう冊子や、尾鷲の浦村の歴史について書かれた冊子をみんなで回し読みしながら友人のご両親の昔話に耳を傾けます。ここに住んでいる方たちが、どんなにこの土地に愛着を持って暮らしているかということを強く意識させられました。時代の変化に翻弄された江戸時代から続く町の歴史を振り返ってみると、昭和30年頃にはピークを迎え、人口1300人を数えましたが、その後は少子高齢化が急激に進み、現在はわずか300名余りまで減少、小学校も中学校も休校して警官も医者もいない町となりました。なんと、この平成時代に入ってからだけでも町の人口は半分に急減しています。それでも、町に住んでる人たちは声を掛け合い助け合い、笑顔の絶えない健康的で充足した生活を送っているように見えました。はっきり言えるのは、須賀利のような過疎の町の状況というのは、少子高齢化が進んでいる日本の未来を表す、ある意味、最先端な場所だと思うのです。この町で当たり前のように行われている習慣の中に、将来の生活をハッピーにする要素がいっぱい詰まっているような気がしてなりません。

 あっという間に過ぎた2日間の滞在。クルマに積みきれないほどのお土産をいただきましたが(実際に後から宅急便が・・・)さらに、カタチのないかけがえのない宝物を授かってきたような貴重な旅となりました。まさに三十路半ばに差し掛かろうとしている僕たちに高校生の合宿のような(笑)こんな貴重な体験をさせてくれた友人と友人のご両親、住民の皆さんに感謝します。そして最後まで長文旅レポートを読んでくださった皆さんにも、僕たちが実際に現地を訪れて感じてきた、かけがえのない宝物のお裾分けをできたら幸いです。ありがとうございました。